第7回 子供のこだわり

 営業の仕事で歩きづめだった洋平は、昼過ぎに一軒のラーメン屋に立ち寄った。今いる場所の近くにある美味しいラーメン屋をスマホで検索してこの店のことを知ったのだった。洋平は疲れた足取りで店の暖簾(のれん)をくぐった。
 「いらっしゃい。好きなところに座りな!」
 気さくな店主のおばちゃんがカウンター越しに声をかけてくれた。ここは味噌ラーメンが美味しいと口コミで高評価だったから、洋平は迷うことなく味噌ラーメンを注文した。おばちゃんの優しい人柄も人気の秘密だそうだ。
 居心地のいい静かな店内で、本棚に置いてあった雑誌をめくりながらラーメンがくるのを待っていると、ちりんちりんと玄関の鈴が鳴って、三人家族が入ってきた。男の子は四、五歳くらいだろうか。両親に手を引かれて楽しそうな様子だった。ラーメンといえば大人だけではなく子供も大好きな食べ物だ、男の子はとてもはしゃいでいる。家族でお出かけなんて実にほほえましい光景だ。幸せな家庭というのはまさにあのような家族のことをいうのだろうな。洋平は温かい気持ちになった。
 それにひきかえ、洋平はもうすぐ三十になるというのに結婚はおろか、彼女すらいない。いつかあんな円満な家庭が築けたらと思っているのだが…。
 ボックス席に座ったその家族は、運ばれてきたお水を飲みながらメニューをみて注文をするところだった。母親は一番人気の味噌ラーメンをたのむとすぐにスマホを操作し始めた。その横で、父親は味噌チャーシューの大盛りと、小鉢を一つ注文した。息子一人では一人前を食べきれないから大盛りをたのんで小鉢に取り分け、一緒に食べようと思ったのだろう。
 洋平はお父さんの心配りに少し感心した。しかし、男の子は味噌ラーメンではなく、正油ラーメンが食べたかったようだ。ここのお店は味噌ラーメンが評判だということも、幼児にはなんら関係のないことだ。
 「味噌じゃなくて正油がいい! 味噌じゃなくて正油! 正油!」
 すぐに男の子は大声でわめき始めた。
 「味噌の方がおいしいんだよ。ぜったい味噌の方がいいとおもうなぁ」
 説得する父親の努力も、むなしく空回りするだけだ。だいたい、味噌の方がおいしいという父親の理論には何の根拠もない。ただ父親が味噌を食べたかったというだけだ。男の子はそれを知ってか知らずか、ことごとく父親の言うことに反抗した。父親は仕方なく注文を変えることにしたのだった。
 せっかく味噌ラーメンが評判の店に来たのだから父親も味噌が食べたかったことだろう。その無念さが、まったく無関係の洋平の胸をしめつけた。
 父親はしぶしぶ、味噌チャーシューの大盛りではなく、正油チャーシューの大盛りに注文を変更した。すると男の子は、
 「正油チャーシューじゃなくて、正油ラーメン! 正油チャーシューじゃなくて、正油ラーメン!」
と、ふたたび大声でわめき始めた。
 ははは…、正油ラーメンも正油チャーシューも、チャーシューが多いか少ないかというだけで味はまったく一緒だ、ていうかチャーシューが多いんだから正油チャーシューの方がいいに決まってる。仮にチャーシューが嫌いなのだとしても、自分は食べなければいいだけの話だ。子供のこだわりっていうのは面白いものだ。洋平は味噌ラーメンをすすりながらカウンター越しの厨房に目をやった。
 そのころ、店主のおばちゃんは微笑みながらその家族を見ていた。たいてい子供が騒いでいると他の客の迷惑になるから、注意したり眉をひそめたりするもんだが、まったく不機嫌そうな素振りはなかった。さすがに人間ができてる。この優しいスープの味もおばちゃんの人柄が表れているのだろう。
 「あのね、たけちゃん、正油チャーシューっていうのは正油ラーメンにチャーシューがたくさんのっているラーメンなんだよ。チャーシューがたくさんあったほうが、たけちゃんもうれしいよねぇ?」
 父親が周りを気にしながら男の子をなだめている。 ほう、あの男の子はたけちゃんというのか。なかなかカッコいい名前じゃないか。洋平はレンゲでスープをすくいながら思った。と同時に、子育ての理想と現実について思いを募らせていた。
 そのとき、母親がたのんでいた味噌ラーメンが、あろうことか先に運ばれてきてしまった。息子をなだめるために自分のラーメンを子供にあげたりするのかな、と思いきや母親はスマホをテーブルに置き、何事もなかったかのようにラーメンを食べ始めてしまった。
 おいおい、嘘だろう…。洋平は目を疑ったが目の前で起きているのが現実だ。もう躊躇している場合ではない。父親がついにチャーシューをあきらめ、正油チャーシューの大盛りではなく、正油ラーメンの大盛りに注文しなおした。
 すると男の子は、
 「大盛りじゃいやだ! 普通のがいい!」
と言い出し、挙句の果てに店内中に響くような大声で泣き出してしまった。
 「たけのすけ! 静かにしなさい!」
 今まで我慢していた怒りが爆発し、父親が張り裂けんばかりの声で叫ぶ。
 少し前まで、洋平にとって理想だった家族がとんでもない修羅場になっている。想像の斜め上をいく事態に洋平は味噌ラーメンのスープをすべて飲み干してしまった。
 こんな時でも優しい店主のおばちゃんは温かい対応をしてくれるに違いない。洋平は空っぽになったどんぶりをゆっくりと目の前に置いた。
 そのとき、カウンター越しにチャーシューを切っていたおばちゃんがボソッとつぶやいた。
 「うるせぇなぁ…」
 その時、包丁を握るおばちゃんの顔から微笑みは消えていた。

(了)

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北野とほ (Kitano Toho)
自作小説&エッセイを勝手に不定期連載してます。
雪国在住です。野山を歩くのが好きです。

  

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