

ピピッ、ピピッ…。
一人暮らしのおんぼろアパートに、電池の切れかかった目覚まし時計の弱々しい音が響いた。外は薄暗かったが時計はすでに午前十時を指している。
「もうこんな時間か…」
ヒロシはろくに顔も洗わずに、しわくちゃのパーカーを一枚はおると、静かにアパートの外に出た。外はシトシトと淋しい雨が降っている。いくら梅雨の季節だからって、どうしてこんなに雨ばかり続くんだろう。
コンビニで買った安いビニール傘を開くとヒロシは半分やけっぱちになりながら乱暴にドアをしめ、鍵をかけた。そして右手に握ったマジックテープ式の布財布をじっと見つめた。中には一万円札と少々の小銭が入っていたが、この一万円はヒロシの金ではない。そう、これから今月分の光熱費を銀行口座に入金しに行くところなのだ。もうすでに2カ月分を滞納しているから、今日は絶対に入金しなければならなかった。
銀行のATMはヒロシのアパートからさほど遠くはない。アパートを出てから左に曲がり、百メートルほど進むと商店街に出るので、そこを右折すればまもなくATMだ。
商店街に向かって道路を半分くらい歩いたところで、ヒロシはある異変に気がついた。いつもの商店街の方角がやけにせわしないのである。パトカーや救急車も来ているようだし、交差点に人だかりも出来ている。何か事件でもあったに違いない。ヒロシは自分の中で野次馬根性がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。いつもだったら、真っ先に商店街に向かって走りだしていたに違いない。しかしこの時のヒロシはふと思ったのである。
「もし、事件の犯人が目の前に現れて、財布の一万円を取られちまったらどうする?」
たしかに、この一万円がなくなってしまったら、今度こそ電気もガスも止められてしまうだろう。そんなことになったら本当にのたれ死にするしかない。ヒロシはそう思いなおすと、トラブルはごめんだとばかりに、商店街とは逆の方向に歩き始めた。少し遠回りにはなるけど町はずれのタバコ屋の隣にも小さなATMコーナーがあったはずだ。
雨は徐々に激しくなってきていた。
「Tシャツにパーカー一枚で出てくるんじゃなかったな」
と、ヒロシは思った。
15分ほど雨の中を歩いてようやくATMに到着するとヒロシは辺りを見回した。商店街からだいぶ離れたその場所は、雨も降っているせいなのか人っ子一人おらず、まさにゴーストタウンという表現がふさわしかった。ヒロシはうす気味が悪くなり、急いでATMコーナーに入ると財布からキャッシュカードを取り出して叩くように暗証番号を押した。
ゴリヨウアリガトウゴザイマシタ。
一万円を入金したあと、無機質な音声が流れてATMから小さな紙切れが吐き出された。そしていつものように利用明細を確認したとき、ヒロシは自分の目を疑った。その小さな紙切れにはこう書かれていたからだった。
ご入金 1,000,000円
ご利用残高 1,000,487円
「百万円だと??」
ヒロシは間違いなく一万円を入れたはずだった。それがなぜか百万円を入金したことになっていたのである。まったく機械の誤作動としか考えようがなかった。ヒロシはその小さな紙切れを見つめながらしばらくの間呆然と立ち尽くしていた。
どのくらいの時が流れただろうか。雨はさらに激しさを増し、雷も鳴っているようだった。外には相変わらず人が通る気配はない。
その時、我に返ったヒロシの頭にはある考えが浮かんでいた。今この口座から一万円を引き出すと残高は九十九万円になる。そして引き出した一万円をまた入金したらどうなるだろう。入金した一万円がまた機械の誤作動で百万円になったら、残高は百九十九万円になるはずだ。それを繰り返せば無限に残高を増やすことができるじゃないか。
ヒロシは震える手を押さえながら、キャッシュカードを取り出しATMから一万円を引き出した。
ゴリヨウアリガトウゴザイマシタ。
さっきと同じ無機質な音声が流れ、ATMから一万円と明細が出てきた。ヒロシはおそるおそる明細をつまみあげると印字された内容を食い入るように見つめた。
お引き出し 1,000,000円
ご利用残高 487円
えっ??
「そんなはずはない、僕は一万円しか引き出していないじゃないか!」
ヒロシはあわてて一万円を入金しなおしたが、何度試しても、もう二度と機械の誤作動が起こることはなかった。
数時間にも数日間にも感じられるような長い時間の後で、憔悴しきったヒロシは肩を落としてATMを後にした。さっきまで降り続いていた雨はいつのまにかもうやんでいて、空にはまぶしい夏の太陽が輝いていた。
(了)

北野とほ (Kitano Toho)
自作小説&エッセイを勝手に不定期連載してます。
雪国在住です。野山を歩くのが好きです。





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